退職にあたり一言。「大変お世話になり、ありがとうございました」

懐かしい写真を1枚。平成7年(1995)度技術職員研修時のもの。

私は38歳。どこにいるかわかりますかね。頭の毛がちゃんと?ありますね。
28年の年が過ぎ、この写真の中には、すでに退職された方のみならず、他大学の教授になった人、民間へ転職した人、事務に職種替えした人、亡くなった方もおられます。

この懐かしい写真を眺めていると、ATEC広報委員の某Tさんから、「是非活動報告に退職の一言」をとの声がかかり、もうフェードアウトするつもりでいましたが、半世紀弱、大学に勤め、退職するにあたり、技術職員組織の歴史を話せる方が少数になってきたので、一言。

元々技術職員は、各学科の研究室や付属施設に配属され、日常的な業務は各研究室や施設の方針で業務を行っていましたが、私たちの上司は誰?研究室の教授なの?学部事務長なの?
業務評価は誰がどのようにしているの?という状況で、昇給、昇格、残業時間いろいろな面で同じように国家公務員試験に合格したのに、配属先、職種が違うというだけで、冷遇されていました。
出張経費すらなく、研究室の教員の出張費から出してもらっていました。
やはり本当に責任を持つ「上司がいなかった」事が主因と思われます。
職場もバラバラ、日常的なつながりも無い中、サークル活動(私の場合「山キタクラブ」というワンゲル部に所属)や、職員組合が、職場を横断した繋がりでした。
私の場合は電子計算機室という施設に配属されていたので、まだ教員や事務の方との繋がりはありましたが、研究室の技術職員は研究室の教員と学生としか日常的な接点は無いという方が多々おられました。
そういうなかで腰掛的にキャリアアップして出ていく人も多かったです。
恵まれたいい教員のいる研究室に配属された人はまだいいのですが、逆の方は大変な苦労をされている実態がありました。
私も働きながら京都工芸繊維大学工業短期大学部を卒業しましたが、その卒業が一つの区切りではありましたが、私は再就職しませんでした。本当の理由は秘密ですが(笑)、電子計算機室はまだ恵まれていた方なんだと思います。
立命の夜間卒業時や、新たな資格を取得等々をきっかけに、出ていく人が多かったです。

私たちだけでなく、「上司は誰」の状態や待遇の改善、技術職員の研修や研鑽の強化などが必要ではないかということが、全国の国立大学からも声があがり、本学でも職員組合技術職員部会を中心に、繰り返し、繰り返し、何度も何度も話し合いをおこない、ようやくこの写真の研修の3年前の1992年4月、工芸学部に技術部が設置されました。
以降の歴史は、ATECホームページの沿革 https://www.tech.kit.ac.jp/about/history/ に掲載されています。
それから高度技術支援センターができるまで、紆余曲折を重ねていきますが、研修の積み重ねを基本に、組織運営でもライン制の組織ではなく、スタッフ制の組織で技術部(室)を運営してきました。
2006年4月、技術部(室)の積み重ねから高度技術支援センターが発足しました。
副学長をセンター長に、上司となる技術職員のマネージャーが業務管理、技術職員の評価等々をおこなうようになりました。まさに出発点であった「私の上司は誰?」が解消されました。
いろいろな面での冷遇面もずいぶん解消されていきました。
ただ全国には、工理医等の学部以外等の国立大学で、数少ない技術職員がおられながら、組織ができない等々で、いまだに技術職員組織が無いところもあるようです。

今後も紆余曲折はあろうかと思いますが、技術職員同士の意見交換や議論を大切にしながら、この組織を発展させてください。

本当に長い間お世話になりました。
みなさんのおかげで、半世紀弱の技術職員生活を送ることができました。
感謝申し上げます。

では、さようなら。みなさんのご活躍を明日香村のお寺から見守っています。
(仕事に疲れた時は休息がてらに、お寺にお寄りください。)

追伸:この記事を書いてから、CISセンター長より4/1以降謝金での勤務依頼がありました。もうしばらく、時々キャンパスで見かけるかもしれません。